【3】【新暦(グレゴリオ暦)の七夕の月齢&旧暦(太陰太陽暦)の七夕(伝統的七夕)一覧と天候】
❶旧暦に基づく七夕を「伝統的七夕」と呼んでいます。
※「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義しています。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当します。
現在の新暦:7月7日の七夕の日は、日本では梅雨の時期と重なり、月の満ち欠け(月明かりの影響)は毎年異なるため、【天の川】が全く見えない年も多いようです。
(月齢は…0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなります。
2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢と天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示しています。)
旧暦では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもありました。そして、夜遅くに月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてきます。但し、近年の日本国内では、「光害」の影響により、月が沈んだ後であっても、輝きが淡い天の川を見ることができる場所は限られています。
❷天候
多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので、雨の日が多く、旧暦の頃からあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つと言われています。
統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではありません。
しかし、旧暦では、毎年必ず【上弦の月】となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくくなっています。
一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、その上月齢が一定しないために、晴れていても、月明かりの影響と光害によって、天の川が見えないことが多いです。従って、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえます。
七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。
1. 2007-07-07: 月齢22 ○…旧暦:08-19
2. 2008-07-07: 月齢4 ◎…旧暦:08-07
3. 2009-07-07: 月齢15 ×…旧暦::08-26
4. 2010-07-07: 月齢25 ◎…旧暦:08-16
5. 2011-07-07: 月齢6 ○…旧暦:08-06
6. 2012-07-07: 月齢18 ×…旧暦:08-24
7. 2013-07-07: 月齢29 ◎…旧暦:08-13
8. 2014-07-07: 月齢10 △…旧暦:08-02
9. 2015-07-07: 月齢21 △…旧暦:08-20
10. 2016-07-07: 月齢3 ◎…旧暦:08-09
11. 2017-07-07: 月齢13 ×…旧暦:08-28
12. 2018-07-07: 月齢24 ○…旧暦:08-17
13. 2019-07-07: 月齢5 ○…旧暦:08-07
14. 2020-07-07: 月齢16 ×…旧暦:08-25
15. 2021-07-07: 月齢27 ◎…旧暦:08-14
16. 2022-07-07: 月齢8 ○…旧暦:08-04
国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)。
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【4】七夕の行事食はそうめん。
意外に知られていませんが、千年も前から【七夕の行事食】となっています。また、7月7日は「そうめんの日」です。
節供に旬のものを食べ、邪気を祓ったり、無病息災を願ったりする風習はたくさんありますが、夏においしいそうめんもその一つです。
暑さで食欲が減退するこの時期にピッタリで、
そうめんを天の川や織姫の織り糸に見立てて、七夕にそうめんを食べるという説もあります。
❶由来…古代中国には、帝の子が7月7日に亡くなり、霊鬼神となって熱病を流行らせました。その病よけとして、その子の好きだった索餅(さくべい)をお供えし、食べるようになり、「七夕の日に索餅を食べると、1年間無病息災で過ごせる」という言い伝えがありました。
そうめんの原形は、奈良時代に中国から伝わった「索餅」という唐菓子(米粉と小麦粉を混ぜ合わせたものを細かく伸ばし、索:縄状にした食べ物)で、麦の収穫期に麦餅を作る風習とともに宮中行事(平安時代の宮中行事では、七夕に索餅を供えていたそうです)に取り入れられ、一般にも広がっていきました。
その後、日本国内で、さくべい→「さくめん」→「そうめん」に変化したという説があり、そこから七夕にはそうめんを食べる風習が生まれたそうです。
そうめんは奈良県桜井市が日本での発祥の地とされています。
室町時代から「索麺(さうめん)」の名で文献に登場し、文献には「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」とあり、七夕の料理として使われていた様子がうかがえます。
江戸時代には、七夕にそうめんを供える風習が広まっていき、細く長いそうめんを糸に見立てて、裁縫の上達を祈願したものと伝えられています。
また、古来において「七夕は機織や裁縫の上達を祈るお祭り」として行われていましたので、糸を織る織姫と結びついて、細くて白いそうめんを糸に見立ててお供えしていたようです。
ただ、そうめんを食べるのは必ずしも全国的な風習ではないようですが、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣があります。
❷色つきそうめんの秘密
色がついているそうめんは、五色の短冊と同じように、陰陽五行説の五色に由来する厄除けの意味が込められています。
本来は「青・赤・黄・白・黒」の五色をお供えしていましたが、いずれかを用いることが多くなりました。
❸七夕そうめんのトッピング
そうめんを茹でたら、そうめんを天の川に見たて、七夕にちなんだトッピングをしてみましょう。
夏野菜のオクラは、輪切りにすると切り口が星の形になって、七夕にピッタリです。
人参やきゅうりなどを星形の抜き型で抜いて散りばめると、色とりどりの星がきらめく天の川のできあがりです。
織姫と彦星に見立てて、子供達が大好きなハムや蒲鉾なども添えてみもおいしく楽しく食べられます。
笹を飾ると、風流で、食欲もそそります。
❹日本国内の素麺産地
日本国内では近世より西日本を中心に素麺生産が盛んでありましたが、これは原料となる小麦、水(軟水)、食塩(海水塩)の産地が近かったことが1つの理由です。
①【東北地方】
卵麺…岩手県盛岡市および奥州市一帯。卵黄と小麦粉を混ぜて麺を延ばす黄色い素麺。水分をあまり含まないため伸びにくい。
白石温麺…宮城県白石市。長さ10㎝程度の短い麺で、稲庭素麺と同じく製造に油は用いない。
稲庭素麺…秋田県湯沢市稲庭町。稲庭うどんと同じ製法で作られる寒ざらしの手延べ素麺。油は用いないのが特徴。
三春素麺…福島県田村郡三春町。明治初期に一度廃れたが、昭和後期に復活し、それ以降に作られている麺の形状は平麺となっています。
②【中部地方】
・大門素麺…富山県砺波市。延ばす際に油を用いないのが特徴で、一般的なまっすぐの束ではなく丸髷状になっています。
・和泉素麺…愛知県安城市。麺が乾燥する前に手で伸ばして生麺状態に戻す"半生もどし"という独特の製法(素麺以外では比較的よく用いられる)で知られ、腰が強い。また、他産地の素麺はだいたい冬場の寒風に晒して干すのだが、この半生もどし麺は主に夏場に作られ、三河湾から吹き付ける湿った風を利用する。麺の長さは2メートル近くもあり、一丈麺と称する。
・大矢知素麺…三重県四日市市大矢知地区で冷や麦の産地として知られるが、江戸時代から続く素麺産地でもある。ミネラルに富む朝明川の水と鈴鹿山脈の颪によって麺作りに適した気候となっている。
③【近畿地方】
・播州素麺…主産地は兵庫県たつの市、宍粟市、姫路市など。2008年(平成20年)現在、日本国内1位の生産高を誇る。播磨地方の良質の小麦、揖保川の清流、赤穂の塩など原料に恵まれていたことから素麺作りが盛んになったといわれる。江戸時代の上方では、摂津国の灘素麺に後塵を拝していた。しかし、近代になって市街化が進んだことによって灘が急速に衰退。それに伴って灘の職人が播州に出稼ぎに出て技術を伝えたことで、品質が向上したともいわれる(ブランドの詳細などは揖保乃糸を参照)。
・淡路素麺…兵庫県南あわじ市(旧南淡町)。19世紀前半に漁師の冬の副業として広まり、最盛期には140軒の製麺業者があった。他の産地におされて衰退し、2010年(平成22年)には17軒だけとなっている。寒冷な季節に、昔ながらの製法で大量生産せず、2日行程で生産している。太さによって、淡路糸、御陵糸、おのころ糸の商品名がある。技法を生かしたご当地グルメとして、淡路島ぬーどるが開発された[16]。
・三輪素麺…奈良県桜井市三輪地区。最も素麺作りの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流はほとんどが三輪からであり、古く素麺の相場は三輪で決められていた(その当時から生産量は少なく、主に島原から買い上げていた。この傾向は産地偽装問題が発覚する2000年(平成12年)頃まで続き、その当時では三輪素麺の7割は島原産であった)。現在でも島原など他県からのOEMによる場合があるが、その場合は「三輪素麺」の名を冠しなくなっている(詳細は三輪素麺を参照)。かつては綿花の産地に近かったため、綿実油を使って延ばすのが特徴である。
④【中国地方】
・備中素麺…岡山県浅口市。鴨方素麺(かもがたそうめん)、かも川素麺とも呼ばれる。古くから「麦切り」という麺類の一種が朝廷に献上された歴史を持つ。現在で言う素麺の生産は江戸時代後期から始まったもので、播州から手練れの職人を招いて技術を学んだものである。そして播州と同様に、良質の塩と水、小麦などの原料が揃っていたことから一大産地に成長した。また、同産地では手延べうどん(備中うどん、鴨方うどん)も生産している。
⑤【四国地方】
・半田素麺…徳島県つるぎ町(旧半田町)が産地。起源は諸説があるが、天保時代に吉野川の船頭が、家族の自給用や副業として始めた説が有力である。宝暦4年(1754年)に書かれた『日本山海名物図会』には、この素麺に関する記述がある。他の素麺より太いのが特徴で、それにより過去には素麺とは別の名を付けられそうになった時期がある(現在は『乾めん類品質表示基準』が改定された事により基準上も正式に「手延べ素麺」となった)。
・小豆島手延べ素麺…小豆島(香川県土庄町や小豆島町)が産地。酸化しにくい胡麻油を使って延ばす。島の光、瀬戸の風などのブランドがある。
・五色素麺…愛媛県松山市。伊予節にも歌われた名物。白に加え、赤(梅肉)、緑(抹茶)、黄(鶏卵)、茶色(そば粉)の五色が彩りを添える。
※岡山・香川・兵庫(播磨)は古くから小麦の産地で、後に「三県物」とも呼ばれるようにまでなりました。温暖・少雨という気候風土が良質な小麦栽培及び製麺業に適していたといわれ、さらに良質な塩が瀬戸内地区で生産されていたことも製麺業が発達した要素であるといわれています。
⑥【九州地方】
・神埼素麺…佐賀県神埼市。生産量は多い(機械麺において日本国内3位)。機械製麺の発祥地で、真崎照郷が明治7年(1874年)、素麺の製麺を手延べから機械化する事を思い立ち鉄工場を始め、明治16年(1883年)に製麺機を発明(明治13年(1880年)発明との話もある)した事に伴い、それ以降は機械製麺が発展し、それにこだわりを持つ職人も少なくない。独特のコシの強さで知られ、冷して食するほか、温めて食べる「にゅうめん」でも有名。2006年、商標法に基づく地域団体商標(地域ブランド)として県内初登録。
・島原素麺…長崎県南島原市などが産地。全国で2番目の生産量で、江戸時代に救荒作物として栽培が奨励された。品質に優れ、古くから三輪に供給されていた実績を誇る。それゆえに知名度は低かったが、近年になってブランド力を高めている。その一方で、三輪に比べ取引価格が下落するような問題も発生している[22]。
南関素麺…熊本県南関町。麺が非常に細いのが特徴で、北原白秋が白糸のようだと形容した。将軍家、明治天皇などに献上された歴史を持つ。昔ながらの手延べ製法を守っているところが多い。
⑦【衰退した産地】
江戸時代には隆盛を極め、幕府などにも献上された歴史を持っていたが、都市化、後継者不足、水質悪化、機械製麺の興盛などの影響により産地が消滅した地域。
・小川素麺(埼玉県)…「新編武蔵風土記稿」に名物との記述がある程の産地であったが、小川和紙が隆盛した事に伴い、素麺生産していた家々が徐々に和紙生産へと転換し衰退[23]。
・久留里素麺(千葉県)…良質の水に恵まれ、江戸幕府にも献上された歴史を持つ一大産地であった。
・輪島素麺(石川県)…大門素麺は輪島素麺に勉強に行って、発祥したと言い伝えがあり、いわば大門素麺の祖先。
・河内素麺(大阪府)…近代に至るまで隆盛を極めましたが、都市化や環境の劣化に伴って次第に衰退し、21世紀に入る頃には自家消費での生産がわずかに残る状態でありましたが、伝統を受け継いでいた最後の農家が2012年に廃業し、古くから続いた生産者は途絶えましたた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられています。
・灘素麺(兵庫県)三輪から技術を伝えられる。魚崎地方を中心に発展し、江戸時代には上方の代表産地として名を馳せた。明治時代後期から都市化などで急速に衰退。廃絶した。後に、灘素麺の技術は播州、鴨方など他産地に伝播しました。
❺【そうめんと食風習】
素麺は祝い事や忌み事の席で食べられる例が多いです。
①【祝食】としては…㈠壱岐を中心とした九州地方で食べられる「鯛素麺」や広島県の婚礼に供される「鯛麺」、
㈡滋賀県の長浜市を中心とした湖北地方で食べられる「焼鯖素麺」が有名です。
㈢他に禅宗寺院では「祝麺」と呼んで祝い事の昼食に素麺を食べる習慣がある。
②【忌み事】としては…㈠通夜ふるまいや法事の斎席で「にゅうめん」が出される地方が見られ、
㈡盂蘭盆会の精霊膳やえびす講の供膳にそうめんを供する習慣は全国に見られ、
祖霊や神仏に供えられると共に親類縁者が集まって食べる例が多いです。
③仙台市などでは七夕に魔除けや子供の健康を願って素麺を食べる習慣があります。これは、幼くして死んだ子供が幽鬼となって疫病を流行らせたので、生前好物だった索餅を供えて供養したところ災厄が治まったという中国の故事に由来しています。
④主にひやむぎの麺に入っているケースが多いですが、赤や緑の彩色麺が素麺にも数本入っている場合もあります。これは、製麺所が素麺の麺束にこれらの彩色麺を混入しているためです。
この風習は、1980年代後半までは関東地方(東京)などを中心見られましたが、1990年代には縮小していき、大多数が白一色の素麺になってしまいました。しかしその一方で、一部の製造業者が現在でもこの風習を続けています。
⑤宮崎県北部では、オオスズメバチの幼虫を使ったそうめんを食べる習慣があります。
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【5】世界に伝わる七夕伝説
❶ギリシア編
たて琴の名手であるオルフェウスという青年が、ある日、妖精の少女:ユーリディケと恋に落ち、幸せに暮らし始めました。ところが、妖精の少女は毒蛇に噛まれて死んでしまいました。
嘆き悲しんだ青年は、天国の大王に、一度だけ少女を生き返らせてくれと頼みに行きました。様々な苦難の末、青年は冥府の王:ブルードに逢うことができました。王は願いを聞き届けてくれましたが、ある条件を提示しました。それは、「地上に戻るまで一度も後を振り向いてはいけない。」と言うものでした。
青年は絶対に振り返らないと約束をして天国を離れました。あともう少しで地上だと言う時になって、青年は嬉しさのあまり後ろを振り向いてしまいました。少女はあっと言う間に天国へ戻ってしまいました。
嘆き悲しみながら野山を彷徨っていた青年は、酔っぱらった女たちから「琴を弾いて」と頼まれますが、断ったため、殺されてしまいました。青年の琴は夜空に昇って琴座となりました。
哀れに思った神:ゼウスによって、青年の魂も星になりました。そして年に一度だけ、少女の琴座と逢うことができるようになりました。
❷フィンランド編
生前、とても仲良しだったズラミスとサラミという夫婦がそれぞれ亡くなった後、星となったのですが、2人の星は遠くに離れてしまいました。しかし、星になってからもお互いが傍にいたいという想いから、それぞれに近くに散らばっている星屑を集めて、2人の星の間に橋を作ろうと思い立ったのです。毎日毎日一生懸命に星屑を集めた2人の願いは、実に千年後に叶えられました。2人の間には立派な光の橋を作り、遠くにいても行き来ができるようになり、シリウスの星の所で再び会うことができました。そして、その橋こそが七夕の夜に瞬く天の川だと言い伝えられています。
❸中国編
その昔、天上には「天衣」と呼ばれる天地を自由に行き来できる衣を織ることができる天女の姉妹が住んでいました。ある日、その天衣を着て地上で水遊びをしていた天女の一人が、若者の男に天衣を隠されてしまったため天上に帰れず、その男と結婚することになったのです。一方その男は、年老いた牛と共にひっそりと暮らしていましたが、天女と結婚したことにより子供にも恵まれ、幸せな暮らしを手に入れました。しかし、いつまでも天女が帰ってこないことに激怒した天上の上帝が、天女を連れ戻してしまったのです。母親がいなくなって泣きじゃくる子供を見た年老いた牛は「私を殺して皮を剥ぎなさい。その皮を着れば天上に行くことができる」と若者に言いました。若者はそれはできないと断りましたが、年老いた牛は自ら頭を打ち付け死んでしまいました。そして牛の皮を着た若者と子供は天上へと登っていきました。やっとのことで天女を見つけた時、空から大きな手が伸びてきて2人の間に線を引きました。その線からはどんどんと水が溢れ出し、若者と天女の距離はあっという間に広がって川となってしまったのです。それを見た子供は「ひしゃくで水をすくおう」と言い、若者と共に空に架かる川の水をすくい始めたのです。それを見た上帝は若者の天女に対する愛情と子供の母を慕う気持ちに感動し、「毎年7月7日だけ、家族で会うのを許そう」と言ったそうです。
❹韓国編
中国から由来される話がもとになっていますが、日本と違う所が、牽牛と織り姫が1年ぶりに合い、嬉し涙を流すため、七夕には絶対雨が降ると信じられているそうです。その夜雨が降れば嬉し涙、2日間雨が続けば、別れを悲しむ涙だと言われています。日本では、雨が降ると天の川が見えないから、2人は会えないと言われています。国によって全く解釈が違うのですね。
❺ベトナム編
天のヤーデ王の娘、チュク・ヌは銀河の岸辺で機を織り、対岸ではヌグン・ランという牧童が羊の群れの番をしていました。二人はやがて相愛の仲になり、王に結婚を願い出ました。王は二人の決心が固いことを知り、一つの条件を出して結婚を認めました。
「お前達の結婚を認めよう。但し、結婚しても自分の仕事を怠けるようなことがあってはならない。一年のうち七月だけは仕事を休んでもよいが、その他の月は仕事に精を出すのだ」
しかし、ヤーデ王が危惧した通り、新婚の二人は幸福に酔いしれ、仕事もせずに二人で天空を歩き回るばかりでした。ヤーデ王は激怒し、二人に銀河の両岸に分かれて住むように厳命しました。「お前達はそれぞれ、自分の仕事をするがよい。ただし、七月にだけは逢うことを許そう」
こうして、チュク・ヌとヌグン・ランは銀河に隔てられて暮し、七月にだけ逢えることになりました。この月になると、カラス達は大地を離れ、見当たらなくなります。というのも、カラス達は銀河に飛んで行って、二人のために橋をかけてやっているからです。チュク・ヌはこの橋を渡って、愛しいヌグン・ランの元へ駆けて行きます。
ほら、七月になると毎日雨ばかり降るだろう。それは、二人が一緒にいる時には喜びの涙を落とし、別れる時には悲しみの涙を落とすからなのだ。この涙雨は大地を潤し、私達に豊かな実りをもたらしてくれるのだよ。
※ベトナムでは七夕に大きな祭りなどはありませんが、7月を「カップルの月」としているそうです。離れ離れになった恋人たちにちなんで、一部の地域では昔の恋人と語り合うイベントなども行われているそうです。
❻日本編
平安時代に作られた「御伽草子」には、次のような物語が収録されています。
ある日、大蛇が3人の娘を持つ男の前に現れました。
娘を嫁に差し出すか、父親の命を差し出すかという大蛇の要求に、名乗り出たのは父親想いの末娘(織姫)だけでした。大蛇の元に嫁いだ娘に、大蛇は自分の頭を刀で斬る様に言います。
娘が言われた通りにすると、大蛇の中から天雅彦(彦星)なる立派な美男子が現れたのです。こうして2人は夫婦として幸せに暮らす事になったのですが、ある日、
天雅彦「3週間たっても戻らなかったら西の京の外れに住む女から一夜杓を受け取って天に来きて下さい」と言い残して天に戻ってしまいました。
娘は3週間経っても戻らない天雅彦を追って天に登り、喜びの再会を果たしますが、運悪く天雅彦の父親に見つかってしまいました。
鬼であった父親はこの結婚に反対しており、天雅彦と引き離そうと娘に数々の試練を課します。
しかし、健気にも次々と乗り越える娘に、父親もやがて認めざるを得ない気分になり、鬼の父親「月に1度なら会っても良い。」と言いました。
娘はこれを「年に1度」と聞き間違えてしまい、その瞬間に父親が手にしていた瓜を投げつけ2人の間に天の川を出現させてしまいます。こうして、娘と天雅彦は、7月7日、年に1度だけ会う様になったのです。
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