7月7日(木)は七夕です。
2022年の旧暦の七夕は8月4日(木)です。
七夕の織姫と彦星は【瀬織津姫(=棚機津女〈たなばたつめ〉=棚機姫〉】と【ニギハヤヒ】とも云われています。
お二方の伝承は、お祭りや行事等にもかなり残っていますので,下記をご覧になって下さい。
そして7月7日は,7回水浴びをして,禊祓いして,七夕の行事食の「そうめん」を食べて,災いの元を退治し,無病息災を願いましょう♪
七夕(たなばた、しちせき)は,中国,日本,韓国,ベトナム等における節供,節日の一つで、五節句の一つにも数えられます。
旧暦では7月7日(22/08/04)の夜のことで,日本ではお盆(旧暦7月15日前後)と関連がある年中行事でしたが,明治改暦以降,お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため,関連性が薄れてきました。
日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいは,それらの前後の時期に開催されています。
[1][七夕の歴史・由来]
❶七夕は「たなばた」または(宮中では)「しちせき」とも読み,古くから行われている日本のお祭り行事で,一年間の重要な節句をあらわす五節句(※)の一つにも数えられています。
日本では,雑令によって,7月7日が節日と定められ,相撲御覧(相撲節会),七夕の詩賦,乞巧奠などが,奈良時代以来,行われていました。
その後,平城天皇が7月7日に亡くなると,826(天長3)年,相撲御覧が別の日に移され,行事は分化して,星合と乞巧奠が盛んになりました。
上巳(じょうし:3月3日「桃の節句、ひなまつり」)、
端午(たんご:5月5日「こどもの日」)、
七夕(7月7日:たなばた「笹の節句」)、
重陽(ちょうよう:9月9日「菊の節句」)
中国の暦と日本の風習が合わさって、このような季節の節目が生まれたようです。
元来は中国の節句の一つであり,太陰太陽暦の7月7日(22/08/04)で,中国暦において,7月は秋の最初の月「孟秋」であり,7日は上弦の月,すなわち,半月の日です。
7が重なる日であるため,「双七」とも呼ばれていました。
二十四節気では立秋前後の時期に相当します。
❷日本での七夕発祥の地は?
大阪府の枚方市や交野市辺りが,七夕伝説発祥に地とされています。
この辺りには,七夕にゆかりのある名前の「天の川」という,京阪電鉄交野線に沿うようにして流れる川が流れていて,その川上流の磐船渓谷には,物部氏の祖先神:饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社があります。
平安時代にはこのあたりは交野ヶ原とも言われ、貴族達が狩猟を楽しむ土地として栄えてきました。
その様子は『古今集』にも記載があり,在原業平が惟喬親王の狩猟の供をした時に『狩り暮し 棚機津女(たなばたつめ)に 宿借らむ
天の川原に 我は来にけり』と詠んだ歌が残っているようです。
この詩の意味は,「狩をして日が暮れたので,今夜は織姫の家に泊まりましょう。天の川に来てしまったのだからね。」
なので、この頃には既に七夕の伝説が定着していたものと考えられています。
❸七夕の起源とは?
七夕といえば,七夕飾りが思い浮かび,織姫や彦星のお話(星伝説),笹の葉、短冊の願い事…等も頭に浮かぶと思います。
また,毎年7月7日の夜に,願い事を書いた色とりどりの短冊や飾りを笹の葉につるし,星にお祈りをする習慣が今も残り,私達も子供の頃,たくさんの短冊をつるして,織姫と彦星に願い事をしたと思います。
そんな七夕の行事は,七夕の発祥地:中国の「七夕」と日本の文化が混ざって,時代に応じて様変わりし,独自の発展を遂げていき,現在のような『日本独自の行事』になってきたようです。
では,七夕は一体いつから,どのようにして始まったのでしょうか?
その起源には数多く説がありますが、
①元々日本の神事であった「棚機(たなばた)」
②中国の「織姫と彦星の星伝説(物語)」と
③奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)」と呼ばれる宮中行事のこの3つが結び付いて,様々に歴史が流れ,今のような形となり,日本特有の行事の七夕の節供に変化していきましたが,宮中では「七夕」と書いて「しちせき」と読んでいました。
七夕を「たなばた」と読むようになったのは,日本古来の「棚機つ女」の伝説に由来します。
「棚機つ女(たなばたつめ)」とは,清らかな川の側に水辺に設けた機屋に入り,棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かみこ)を織りあげ,それを棚に供えて幡を立て,神様を迎え入れ,一晩神様と共に過ごし,翌日穢れともに,神様を送り出し,人々の罪穢れを祓い,祖霊に秋の豊作を祈る神事をする乙女のことです。
本来「七夕」は食物の成長を神様に感謝するお祭りであり,そして,お盆に祖先の御霊をお迎えする前に,棚機津女が,御霊の衣服を織って棚に供え,村の穢を祓う行事だったのです。
これが,日本に古くからある棚機(たなばた)と呼ばれる神事で,現在「七夕」を「たなばた」と読むのはここから来ています。
また,仏教の伝来に伴い,お盆に仏様やご先祖様を迎えるための祭壇「精霊棚(しょうりょうだな)」と幡(はた)を設けるのが,7日の夕方であることから,「7日の夕」で「七夕」と書いて,「たなばた」と発音するようになったとも言われています。
この日は「七日盆」(なぬかぼん)といい,墓掃除し,仏具を洗ったり,盆道(ぼんみち)を作ったりして,ご先祖様に盂蘭盆会が近付いたことを報告します。
(盆道作り…盂蘭盆〈うらぼん〉の精霊〈しょうりょう〉迎えのために,墓から家までの草を刈り,道を整えること。)
この日からお盆に入る為,仏様やご先祖様を家に迎える為に,「七夕の日に,七度水を浴びて,禊をして,穢れを祓い」,身を清める日でもあります。
七夕の日の水浴びは「ねむり流し」「ねぶた流し」ともいわれ,青森の「ねぶた祭り」も,本来は穢れを水に流す祓いの行事だと言われています。
また,旧暦の七夕の時季は雨が少ないため,雨(水)が欲しい時季でもあるので,七夕は雨乞いを願う祭日で,雨乞いのための「水神祭」であったとも言えます。
なので,地域によっては,雨を浄めと考え,「七夕の日には,短冊が流れるほど雨が降るのが良い」と考えられています。
[七夕の祓]…七夕の翌日に笹竹を川や海に流す七夕流しは,「心身の穢を流す(祓う)」という意味が込められています。
このように,「七夕」の日に雨や水にまつわる伝承が多く伝えられていることから,水と縁が深く,水に関する習俗がたくさん見られます。
それは,水の霊力によって罪穢を祓い除き,願い事の成就を祈るわが国の古い信仰に基づくもので,「大祓式」と同様に重要な「祓(はらえ)の儀式」でもあるからです。
その他,「牽牛&織女」の二星がそれぞれ耕作及び蚕織を司るため,それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もあります。
一方、古くから、農村では、豊作を祈り、種を播(ま)く「種播(たなばた)祭り」が存在していたようです。
[2][世界の七夕の歴史・由来]
昔,世界樹又は宇宙樹と呼ばれる「天地創造の時に,まず1本の巨木が生じて, この巨木から世界は体系的に作られたとする神話」で,この天と地を結ぶ一本の巨木から,全てが生まれ,全ての秩序が作られていったとする信仰がありました。
この宇宙樹は「地上と天の中心である北極星を結ぶ」言わば「宇宙の中心」 としての役割があり,今から約13000年程前の北極星は,織姫星の琴座のベガ星でした。
その後,歳差運動により,北極星は現在の子熊座のポーラスターになりました。
ここに絶対神の世界樹は東西方向に分裂し,東と西それぞれに神が出来,それが太陽の象徴である「東王父」とシャーマニズムの要素もある宇宙樹本体の「西王母」です。(中央に左右分裂を示す水の象徴である天の川)
この信仰がやがて「彦星」と「織姫」に変化していきました。
(歳差運動は地球の自転の向きと反対に地球がコマ振り運動をすることで,約26000年をかけて 一回転し,北極星はもとの星に戻っていきます。)
[琴座の0等星:ベガと呼ばれる織姫(女)星]は蚕織,裁縫の仕事。地球からの距離は25光年。
[鷲座の1等星:アルタイルと呼ばれる牽牛(けんぎゅう・夏(彦)星】は農業(耕作)の仕事を司る星と考えられていました。
この二つの星の間の距離は約16光年あり,光(秒速30万km)で走っても16年かかりますので,1年に1度のデートは無理ということになります。
(この2星座に,白鳥座のデネブを加えた3つの星を結んで「夏の大三角形」と呼ばれます。
見た目では同じ位の星の大きさに見えますが、実はデネブだけすごく遠い所にあるようです)
「星の逢引」であることから,七夕には星あい(合(い))という別名があり,また,この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれています。
催涙雨は織女と牽牛が流す涙と云われています。
➊中国の「織姫と彦星の星伝説(物語)」
⑴六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には…
「天の河の東に織女有り,天帝の子なり。
年々に機を動かす労役につき,雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。
天帝その独居を憐れみて,河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
嫁してのち機織りを廃すれば,天帝怒りて,河東に帰る命をくだし,一年一度会うことを許す」
という一節があり,これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料の一つとなっています。
その内容は,『天帝の娘の「織女(しゅくじょ)」が天の川の西の岸におり,機織りが上手な働き者だったのですが,天の川の東側にいた「牽牛(けんぎゅう)」と出会い,2人は仕事もしないほど恋に夢中になってしまいました。
すると,織女が機織りをしないため,人々の服装は貧しくなり,また,牽牛は牛の世話をせず,牛に病気が蔓延して,さあ大変なことになりました。
それに怒った天帝が,天の川を境に引き離してしまいました。
ただ,年に1度の7月7日の夜だけ会うことを許しました。
しかし、この日に雨が降り、天の川の水かさが増し、織女は渡ることが出来ません。
そんな時,鵲(カササギ)が橋渡しをしてくれ,2人は無事会うことができたのでした。』というようなお話となっています。
この二つの星は旧暦7月7日に,私達の頭上で,北東~南西に横たわる天の川をはさんで,最も光り輝いているように見えることから,中国で擬人化して,この日を一年一度の巡り会いの日と考え,七夕ストーリーが生まれました。
⑵織女と牽牛の伝説は,中国では,『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされていますが,まだ7月7日との関わりは明らかではありません。
後漢時代の崔寔(さいしよく)《四民月令》が最も古いものの一つで,そこには,「この日に書物の虫干しをする」ほか,「河鼓(かこ)(牽牛)と織女の二星が会合するのにあわせて,人々は願い事をすると書かれています。
⑶中国各地の民話
古典文学として,上記のようなストーリーとなった七夕説話ですが,長い歴史の中で,中国各地の民話として,様々なバリエーションを生じるに至っています。
それらは地方劇で上演され,戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』があります。
その内容は,牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となりますが,やがて織女は天界に帰り,牛郎は織女を追って天界に昇るものの,織女の母の西王母によって,天の川の東西に引き裂かれるというものであり,「羽衣伝説」のようなストーリー,すなわち,「白鳥処女説話」となっています。
※織女や牽牛という星の名称は古く,春秋戦国時代の『詩経』が初出とされていますが,どの星を指すかは定かではありませんでしたが,前漢の『史記』天官書を見ると,かつての牽牛は牛宿のことであり,現在の牽牛,すなわち,アルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星となっています。
その他,後漢時代(2世紀)の古詩,六朝の『擬天問』や『風土記』にあり,日本でも『万葉集』にみえます。
七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われます。
⑷現在の中国
現在の中国の七夕は「愛情節」と呼ばれ,多くの商店や人々は「中国のバレンタインデー(「情人節」つまり恋人の日)」と呼んでいます。
しかし,七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートという内容は無いため,民俗専門家は「情人節」は不適当で,「愛情節」と呼ぶべきだとしています。
中国大陸では,七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっており,伝統習俗は廃れて,人々の七夕に対する情熱は西洋の舶来品の「情人節」とは比べ物になりません。
台湾や香港でも西洋文化の影響を受け,七夕の状況は憂うべきものになっています。
⑸中国の伝説の日本への影響は?
擬人化した七夕の伝説は、日本の口承文芸の中にも数多く語られています。
㈠七夕の由来譚(たん)は,室町時代の『天稚彦(あめわかひこ)物語』に,娘が大蛇と結婚する異類婚姻譚となって語られており,現に全国に少しずつ語り口を変えて伝承されています。
その骨子は天人女房の昔話です。
天女が水浴びをしていると、若者がかいまみて、一人の天女の羽衣を隠してしまいます。
羽衣のない天女は天に帰ることができず男の妻となります。
子供が生まれ,その子供の歌から羽衣が穀物倉に隠してあることを知り,天女は羽衣をつけ,子供を連れて,天に飛び去ってしまいます。
天女は別れる時、瓜の種を残してゆきます。
男はこの瓜のつるを登って天上へ行きます。
天帝の難題を天女の援助によって解決しますが,禁じられていた瓜を縦に割ってしまい,瓜から流れた水が大洪水となり,男は流されてしまいます。
この川が天の川で,天女は流されてゆく男に,7日7日に会おうといったのに,男は7月7日と聞き違え,年に一度7月7日にしか会えないようになってしまった。
➋乞巧奠(きこうでん)は…
乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い,7月7日の夜,織女にあやかり,手芸上達を願う祭です。
(「乞」は願う,「巧」は巧みに上達する,「奠」はまつるという意味です。)
※「乞巧奠」とは…七夕の発祥の地:中国の宮中行事で,7月7日に機織りが上手な織女星にあやかって,7日の夜に「針や糸を供えて,手芸(機織りや裁縫,針仕事)の上達を願う」といった宮中行事で,古くは南北朝時代の『荊楚歳時記』に見え,唐の玄宗と楊貴妃の時は盛んに行われました。
⑴南北朝時代…『荊楚歳時記』には,「7月7日は“閨中秘戲”牽牛と織姫が会合する夜である」と明記され,「この夜,婦女は飾り付けのある小屋を作り,7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し,また,筵を敷いて,酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて,針仕事の上達を祈った(乞巧を行なった)」と書かれており,7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かります。
⑵中国の前漢の出来事に関する逸話を集めた書物:『西京雑記』には,前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されていますが、織女については記されていません。
⑶以前の中国の女性の運命は結婚して,夫に従い,子を教えることしか選択肢なかったので,少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていました。
よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女達は七姐(織女)を祭り、細やかな心と器用な手先を得て,良縁が得られるように祈りました。
これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来です。
女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり,黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通し、しばらくして、七夕も「女の子の日」となりました。
しかし,古人が「乞巧」するのは七夕に限らず,正月や八九月も乞巧をし,宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになりました。宋元時期、【七夕乞巧節】は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称しました。
★⑷一方【日本では…】
㈠この行事が,奈良時代に,遣唐使によって日本に伝わると,宮中の行事として,七夕の日に,中国伝来の乞巧奠が行われています。
日本で最初にこの行事をしたのは持統天皇であると云われていますが,それは七夕の行事であったのか,それとも亡き夫:天武天皇の供養であったのかはわかりません。
宮中では,清涼殿の東庭に敷いた莚(むしろ)の上に机を4脚並べて,祭壇をつくり,桃,梨,茄子,瓜,大豆,干鯛(ひだい),薄鮑(うすあわび)等,様々なお供え物を供え,ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して,色鮮やかな五色の糸をより合わせたもので,針の穴を貫き,
裁縫の上達を祈ったり,一晩中香をたき,灯明を捧げて,天皇は庭の倚子に出御して,「牽牛と織女が逢うこと」や詩歌や裁縫の上達を祈ったと云われています。
また,貴族は,7枚の梶(カジ)の葉に和歌を綴ったり,たらいの水に星を映して眺める「星映し」などを行なうようになりました。
また,里芋の葉を天帝の水を授かる傘ととらえ,里芋の葉に溜まった夜露で墨をすって,文字を書くと,習字が上達し,願いが叶うとされています。
俊成女の歌に「たなばたの とわたるふねの 梶の葉に いくあきかきつ 露のたまづさ」とあります。
(梶の葉の裏側は細くて滑らかな毛がたくさん生えているため,墨の乗りがよく,紙の原料としても使われていました。
宮中行事を伝承する京都の冷泉家では,今でも古式ゆかしい七夕の歌会や乞巧奠がとり行われており,梶の葉が重要な役割を果たしています。)
㈡734年には聖武天皇が七夕の詩歌を作らせました。
「秋風の 吹きただよはす 白雲は たなばたつめの 天つひれかも」(万葉集2041)
㈢『延喜式(えんぎしき)』(平安時代中期)には織部司(おりべのつかさ)の行事として7月7日に織女祭が行われたといいますが,いずれも宮廷や貴族の習俗でした。
㈣『平家物語』によれば,貴族の邸では,筆,楽器,糸たばを机に並べて,願い事をカジの葉に書き、二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・書道・裁縫・染織・芸事などの技芸上達が願われるようになりました。
㈤室町時代になると,七夕に歌を供える風(ふう)が入り,7という数にあやかって,7種の遊びを行なったと云われています。
㈥江戸時代には,武家の年中行事としても定着し,七夕の節句が五節供の一つに定められると,庶民の行事として,定着し,人々に親しまれるようになっていきました。
その後,手習い事の願掛けとして,一般庶民にも広がり,和歌や音楽,裁縫,書道など芸の上達を願って行われるようになりました。
『銀河草紙』(池田東籬著)には,様々な風習が紹介されています。
㊀七夕の笹飾りは、江戸後期には既に盛んになっていたようで,「今の世のならいに,七月五日または六日に五色の染紙を色紙短冊の形に切りて,詩歌を書き,長き竹に結い付け,幼童ら市中をささげ歩きて遊戯をなし…」とあります。
江戸時代は子供達が笹を持って,街中を練り歩いたことがわかります。
㊁「七夕踊り」…七夕の夜、諸芸を教える師匠の家が主催して,踊りの会が催されました。
「手習いをしゆる家々には,この日門人を迎え,手向けの詩歌を書かしめ,夕べには提灯をともし連ねて,踊りを催ふす」とあります。
㊂七夕の朝は早起きして,芋の葉に付いた露を集めて,墨をすって,書道をして,達筆を願いました。
この日は硯もよく洗い清め,筆も新しいものを使ったといいます。
芋の葉の露を使う理由は,「芋の葉における露は,みるみる白金のようにて、いとも清くみゆる」からだそうです。
㈣星に捧げる和歌を詠んだり、詩を作ったりする風習もあり,梶の葉や短冊に和歌を書きました。
「短冊色紙書法」として,短冊や色紙に詩歌を書く「書き方」の例が絵で示されています。
㈤七夕の日に着物を星にお供えする風習があり,人々は「星に小袖を貸す」と言っ ていました。
この風習は「貸し小袖」といい,着物をお供えすると良い着物に恵まれる,などと言い伝えられています。
⑷中国と日本の違い
中国伝来の乞巧奠は当初貴族に伝わり,それはこの日の晴天を祈る星祭(乾燥文化圏の行事)となり,一方、日本では、古来の農神としての七夕は民間に流布し,盆行事とも結合して,穢を祓う習俗となり,従って,雨天を望む湿潤文化圏の行事の要素をもっていて,七夕はこの二つの複合習俗といえます。
尚、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではなかったようです。
[3][短冊に願い事を書き,笹の葉に吊るす七夕]
七夕行事は上記のように,奈良時代から宮中で行なわれ,「織姫と彦星の星伝説」や「乞巧奠」のお話にもあるように,手芸,機織りの上達を願い,それが長らく続いていたようですが,織物に加え,和歌や管絃,立花,香道などの巧を祈る芸能祭のような色合いを帯びるのは室町時代のことです。
私達が現在知るところの笹飾り(短冊に願い事を書き,笹の葉に吊るす)ことが,一般的に盛んに行われるようになるのは,行われるようになったのが,江戸時代からと言われています。
この風習は,夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで,現在のように,笹の葉に七夕飾りをして,願い事をし始めたことは,日本以外では見られないものです。
五色の短冊に願いを書いて、笹の葉に吊るしますが,これは江戸時代の寺子屋の子供達が,硯を洗い,稲の朝露で墨をすって,七夕の和歌を梶の葉や短冊に「和歌や書道が上手になりますように!」と手習いの上達の願い事を書いたことで、町民の間にも広がっていき,庭前にウリ・ナスなどを供え,笹竹に歌や願い事を書いた五色の短冊・糸・布などを飾り,書道や裁縫の上達などを祈るようになりました。
※笹は真っ直ぐに伸びるので,「霊性を宿し,厄除けの力がある」と,また,その葉が擦れ合うことで奏でられる軽やかで爽やか音は
「神様を招く」と言われています。
■七夕飾りを作ってみましょう♪
七夕飾りには、一つ一つに意味があり、由来を知って飾ってみると、また、楽しくなります。
・(「たなばたさま」の楽曲にある)「五色の短冊」…願い事や「天の川」など七夕にちなんだ言葉や絵を書いて下げます。
願い事を書き、願いが叶うよう祈願します。
但し、染料や色彩認識の関係で、昔も今も青は緑、黒は紫で表されることが多いので、実際には緑・赤・黄・白・紫になっていることもあります。
中国では五色の短冊ではなく,五色の糸をつるし,さらに,上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために,短冊に書いて,ご利益のある願い事は芸事であるとされています。
また,お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも
短冊は影響を強く受けています。
また、鯉のぼりの吹き流しは五色です。
五色のほかにも,方角を表す五方,季節を表す五時,人の徳目を表す五常(五徳),人の感覚器官を表す五官など,あらゆるものが五行に配されています。
[五行] [五色] [五方] [五時] [五常] [五官] [五獣]
木 = 青 ……東 ……春 ……礼 ……目 …青竜
火 = 赤 ……南 ……夏 ……仁 ……舌 …朱雀
土 = 黄 ……中 ……土用 …義 ……口 …黄麟
金 = 白 ……西 ……秋 ……智 ……鼻 …白虎
水 = 黒 ……北 ……冬 ……信 ……耳 …玄武
七夕の後,七夕飾りを川や海に流す風習を「七夕流し」といい,七夕飾りが天の川まで流れ着くと,願い事が叶うといわれています。
七夕の笹は7月6日に飾り、さらに、翌7日未明に川や海に流すことが一般的な風習ですが、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり、川や海に流すことは少なくなりました。
地域によっては、川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っている所もあります。
七夕飾りや笹は、七夕の夜のためのものなので、翌日には取外しましょう。
本来は川に流して清めるものですが、川には流さないで、小さく切ってゴミの日に出しましょう。
但し、願い事を書いた短冊は、近所の社寺に持ち込めば、お焚き上げしてもらえます。
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一(ひ)は始めなき始[ミクロ(極小)]であるぞ、ケは終りなき終り[マイクロ(極大)]であるぞ、
[神の能(はたらき)]が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。
一二三は[神の息吹]であるぞ,一二三唱えよ,
神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ
始め一二三あり,一二三は神ぞ,一二三は道ぞ,
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