最近、茶器づいている図書館カフェです。
先日、図書館カフェに新しい茶器、山口萩焼の祖、
【大和松緑】さんの茶碗が到着しました!
うっすらとピンクがかっている所が、気に入って買いました。
萩焼の釉薬は、木の灰やワラの灰などを使って作るので、
高温の窯で焼くと、木の灰を使った釉薬は、基本的には透明になり、
わらの灰を使った釉薬は、基本的には白獨不透明になるそうなので、
ピンク色に変化することは珍しいようですよ!
出「口」王仁三郎さんの茶碗の次は、山「口」萩焼。
何か「口」に縁がありますね。「口」を使えっていうことかな??
後、先週、ファーストレディの安倍昭恵さんにご来店頂いたり、
ユニクロの柳井さんにお世話になったり、
お客様の千手さんが山口から関東に引っ越してきたり、
山口県には何かと御縁があります。
「3人と協力して、凄まじい情熱で、地上天国を創りなさい!」
というメッセージなのか???
この茶器に一番最初に口をつけたのは、
なんと今後、栃木で農業をするカールさんでした!
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大和松緑(やまと-しょうろく:本名:作太郎、長門出身、
1855[安政2]年8月22日~1921[大正10]年7月18日)さんは、
三輪家8代【三輪雪山】さんのもとで修行をし、
1892(明治25)年、萩から【吉田松陰】誕生地の近くの
【山口市宮野】へ移り、【松緑窯】を開窯、
①李敬の興した萩市松本の松本焼
②李勺光の孫による深川(ふかわ)焼(長門市)に次いで
③松緑焼(宮野焼):山口萩(はぎ)焼を興しました。
彼はこの宮野の松緑窯で、1921(大正7)年66歳で生涯を終える迄の約30年間、
宮野付近の地土(じつち)を巧に使いこなして、
萩東光寺窯時代に修得した「石焼き」と称する磁器系のやきものや色絵付け、
あるいは山口の近くに産出する「大道土」を主原土とする萩焼系の茶器等、
実に多種多様な独特の松緑焼(宮野焼)を焼き続け、
晩年には不幸にも脳硬塞に冒されましたが、
彼の作陶の意欲は衰えを知らず、左手の不自由にもめげず、
右手一本で茶碗を挽くという凄じさで、
その逞しいフロンティア精神を発揮した波瀾の陶工人生を終えたそうです。
出口王仁三郎さんも【耀琓(ようわん)】を作っていた当時、
左上肢が麻痺した状態であっても、休むことなく、
まさに血の小便が出るほどの集中力(関連した歌あり)で
2000回の『かむながらたまちはえませ』の神文を唱えながら、
自らの命を削るが如くの情熱で製作していったそうなので、
情熱の凄さは彼と同じですね。
彼は、主な原料土の「大道土」に地元の土を数種類混ぜ合わす事により、
「ホタル」とか「ホシ」と呼ばれる、
まだら状の紅色の発色を新たに創り出しました。
今、その萩焼とも一味違った風趣を見せる数少ない彼の遺作は、
萩焼本来の茶陶にも、また宮野地方の地土を使った石焼きの日用雑器等にも、
厳しい職人芸をうかがわせる轆轤技術の確かさと、
重厚にして洒脱ともいうべき作風には、目を惹き着けられるものがあり、
まさに【山口萩焼の開祖】たるにふさわしい名工であったということがうかがえます。
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★萩焼の【歴史】
[始まり]16世紀末期 豊臣秀吉による文禄慶長の役(朝鮮出兵)は
別名「やきもの戦争」と言われるほど、西国の大名たちは
こぞって井戸茶碗をあさり、多数の朝鮮陶工を連れて帰りました。
萩焼の始祖:李勺光(リシャコウ)、李敬(リケイ)兄弟を中心とした陶工たちは
当時、秀吉の信任の非常に篤い大名で茶人でもあった毛利輝元に預けられました。
その後、関ヶ原の戦で領地を削られた輝元は、1604年に広島から萩へ移封され、
これに伴って、李兄弟も萩に移り、萩焼が始まりました。
[萩焼の土と繁栄]
初期の萩焼は[高麗茶碗の写し]で、
それを再現するために適していたのが、
防府市の【大道で取れる土】で現在でも主要な土として使っています。
1653年頃には、山村家と弟子たちが
大津郡深川(現在の長門市湯本)に窯を築き始めます。
萩焼は毛利家御用窯の松本焼と
御用窯件自分焼(庶民向け食器も焼く)深川焼の二つに大きく分かれます。
1663年に初代三輪休雪が御用窯に取り立てられ、
松本焼の生産強化が図られました。
また初代休雪は、80歳の時、藩命により京で【楽焼】を学び、
【白萩を完成】させ、萩焼の【和風化】を進めました。
江戸中期には全国的に磁器が盛んに作られるようになり、
萩市小畑でも民間の磁器窯が出来、
藩改革の一環で中国に輸出するほど栄えていたそうですが、
有田焼の量産物におされ明治から昭和にかけて衰退していきました。
この減少は全国の窯業産地で起こった現象のようです。
1815年には御用窯以外で禁止されていた濃茶茶碗に似たモノが出回ったため、
萩焼の主要な土である大道土の禁止令も出たようですが、
あまり効果は無かったようです。
[明治以降]
明治に入ってからは御用窯は民営化を迫られ存続の危機に合ったようです。
また、経済の近代化、合理化、生活の欧米化が萩焼に限らず
伝統工芸の衰退に拍車をかけたようです。
そんな中で明治中期には三輪家8代三輪雪山のもとで修行をした大和松緑が、
1892年萩から山口市宮野へ移り松緑窯を開窯、山口萩焼が興ります。
★萩焼の【特徴】
萩焼の大きな特徴は、焼き締まりの少ない柔らかな土味と高い吸水性にあります。
吸水性が高いため、長年使い込むうちに茶しぶや酒が浸透し、
茶碗の色彩が微妙に変化します。
この変化は、「萩の七変化」といい、
茶の湯を嗜む人たちの間では「茶馴れ」とも呼んで愛でられています。
その他の特徴としては、形や装飾の簡素さがあり、
ほとんどの場合、絵付けは行われない。胎土となる土の配合、釉薬のかけ具合、
へら目などが、登窯の作用によって様々な表情を生みだすことを想定した上で、
その魅力を活かすように作られています。
★萩焼の【釉薬】
萩焼の釉薬は、木の灰やワラの灰などを使って作ります。
高温の窯で焼くと、木の灰を使った釉薬は、基本的には透明になり、
わらの灰を使った釉薬は、基本的には白獨不透明になり、
時にはピンク色に変化することもあります。
どろりした灰色の釉薬が炎に溶かされ、
あの萩焼独特の柔らかい色合いを生み出すのです。
★萩焼の【窯】
萩焼の窯は、主に登り窯で、傾斜地を利用した【朝鮮式の連房式登り窯】です。
この連房式は、各室が蒲鉾の様な形で3~5部屋が繋がっており、
これらが、傾斜地に作られています。
窯としては長く続きましたが、
近年、窯の中にある棚板の積み方などが容易になったことで、
現在ではガス、電気窯を併用しながら、
登り窯での焼成は年に2~3回のみとなっています。
また窯は、環境問題などもあり、町中から少し離れた場所に作られています。